column
みんなにメイナードのことを伝えたい
肩肘張らず、文体も整えず、掲載順もランダムに、ここでしかお伝え出来ないことを書き綴っていければと思います
形見
Carl
- 謎"ゲラーズセラー"はいくつある?
- ジャズミュージシャンはジョーク好きな人が多い。メイナードの初期の作品に「Geller's Cellar」があるが、ジョーク好きと共に文字遊びが好きなのか、この曲はソリストのHerb Gellerの名前をもじって名付けられた。
実はこの曲、歴代のソリスト、フィーチャー奏者の名前をもじり、複数の名前で録音が残されている。現時点で把握しているのは次の通り。曲名とミュージシャン名の順を挙げてみた。もし他のパターンをご存じの方がいらっしゃれば教えてください。
Geller's Cellar -> Herb Geller
Morgan's Organ -> Lanny Morgan
※当初、Lanny's Fanny と Morgan's Organ の2案があった
Stay Loose With Bruce -> Bruce Johnstone
Glenn's Den -> Glenn Kostur
Ernie's Blues -> Ernie Wilkins (この曲がオリジナル。[amazonで購入])
番外編:Jimmy Ford -> Watch the Ford Go By!
しかしこれだけはその理由が分からない
Katimavik -> Jean Lebrun
名前自体はカナダの慈善団体のもののようで、この曲が収録(演奏)されたのは1967年のモントリオール万博会場だったことが関係しているのか?
2019/09/13
2020/05/01更新
- 謎あのラジオの正体は??
- メイナードが1976年にリリースした「Primal Scream」。
「プライマル・スクリーム」。日本でのタイトルは「クロスオーバー・ファーガソン」。今日書くのは、このジャケットの話。- ラジオを突き破り、背面から表へと、火花と共に飛び出してくるモンスターの手(?)。
当時から、このデザインの意図については、まったく分からず仕舞い。- あれは検索エンジンがポピュラーになりかけた頃だったか、この謎を解決すべき検索をした際に「ファーガソン・ラジオ社」なる会社の存在を知った。
- イギリスにあった会社で、今ではヴィンテージラジオの代名詞みたいな存在になっているっぽい。
例えばこのようなモデルが存在していたようだ。
- どうだろう、アルバムジャケットのラジオはこの会社のモデルだったというのはあながち外れではない気がしないだろうか。
- さて、このアルバム、メイナードのフュージョン作品の最高傑作と呼ばれる。
当時、まだフュージョンという言葉は浸透しておらず、クロスオーバーという表現がもっぱら使われていた。そして、そのまま邦題がクロスオーバー・ファーガソンとなったのだろう。- さらに補足すると、プロデュースはボブ・ジェームス。ゲストミュージシャンに、ゲイリー・キング(b)、スティーブ・ガッド(ds)、エリック・ゲイル(g)、チック・コリア(p)、デビッド・サンボーン(sax)という豪華な名が連ねられている。
- 長いヨーロッパ時代から再びアメリカに戻って来た頃の作品でもあり、ラジオをイギリスのファーガソン社のものと決めつけてしまえば、イギリス=ヨーロッパ時代に別れを告げ、新しい作品に取り組もうとする、"新生"メイナードの決意表明とも受け取れないだろうか。
真相は分からないままだが、こうしてあれこれと考えてみるのもマニアとしては楽しいものである。
2019/09/23 - ラジオを突き破り、背面から表へと、火花と共に飛び出してくるモンスターの手(?)。
- MF幻に消えた東京駅「駅コン」出演
- メイナードの演奏を東京駅で楽しめる。しかも、無料で。こんなチャンスがあったのをご存じだろうか。
- 1988年、メイナードはハイ・ボルテージを従えての来日ツアーを行った。
その中で、この東京駅「駅コン」でのステージが組まれていたのだった。- 私がこのコンサートの情報を入手したのは、彼の事務所から送られてきた来日ツアーのスケジュール表だった。
日本各地のホール会場の名前が並ぶ中、「Tokyo station」の文字を見つけた。
移動のスケジュールが混じっているだけかと思ったが、早速、東京駅関係者に連絡し、事実であることを確認した。- 駅コンの会場は、東京駅のシンボルの一つ、丸の内側にある、あの吹き抜けのスペースだった。
日本で一二を争う、多くの乗降客が移動するスペースだ。予定時間は、お昼時と夕方の二回。- あの解放感にあふれる空間に鳴り響くファーガソンのハイノートとバンドのタイトなサウンド。
すごい企画じゃないか!- 当然のことながら、9割近くの客はファーガソンのことを知らないだろう。
彼らがどのような顔でファーガソンの演奏を聴くのだろう。
聴衆、移動客がそれをどのように受け止めるのか、それを考えるだけでもファンとしては楽しみであった。
ゴキゲンなサウンドに嬉しそうな顔をするのか、大音量のビッグバンドサウンドに驚くのか。。- と同時に、MFの魅力が分かりもしない人々に無料で聴かせてほしくない。音響も良くはないんじゃないか。
といった、ファンならではの複雑な思いとが、私の中では交錯していた。- しかし、残念なことに、この企画は幻に消えた。
- 当時、(昭和)天皇のご病状が優れず、一日も早いご回復を祈り、日本ではさまざまな自粛がなされていた。 駅コンも、この動きの中での判断で「中止」となったのだ。
事態が事態ゆえに、この中止の判断は仕方のないものだっただろうと思う。 そして、厳粛に受け止めなければならないだろう。- コンサートは中止になったものの、案内パンフレットや電車広告(中吊り)は用意されているのではないか。
そう思い東京駅の担当部署へ尋ねたが、返ってきた答えは「印刷は行われていません」であった。- コンサートは実現せず、正式なポスターなども制作されず、本当に幻のコンサートとなった。
- もし、当時の関係者の方がおられたら是非お話を伺ってみたい。
- あれから、31年もの月日が流れた。
- 今回この話を書くため、駅コンについての情報をネットで検索してみた。
- 「東京駅 駅コン」のキーワードで検索
- すると、トップに表示されたのは、婚活パーティーの情報だった。 時代もずいぶんと変わったものだね。
- 補記:この「駅コン」、正式名称は「とうきょうエキコン」でした。
2019/09/22 - 1988年、メイナードはハイ・ボルテージを従えての来日ツアーを行った。
- MF2006年、MFファンの熱い夏(2) それは、メイナードの別れの挨拶だった?
- 別の稿で2006年の夏のことを紹介したが、今回はメイナードの旅立ちの日に起きた不思議な出来事を紹介したいと思う。エリック・ミヤシロさん、そして来日コンサートを企画してくれた黒坂洋介さんと私の3名はそれぞれ次のような不思議な体験をした。当時、メイナードの容態が芳しくなく、日本ツアーがどうなるか分からない。。ごく限られた関係者だけがこのことを知っていた。
- まず最初はエリック・ミヤシロさんに伺った話。彼はその日、横浜でステージを控えていた際に報せを耳にしたそうだ。悲しみを誰にも気付かせず演奏するエリックさん。そこで彼は、客席後方に二つの光が現れ、一緒になって消えていくのを目にしたと話してくれた。その二つの光とは、メイナードと天国から彼を迎えに来た奥様だったのだろうか。
- 次は黒坂さんの体験。黒坂さんはこの年の日本ツアーを切り盛りしてくださった方。
彼の話も光にまつわるのだが、その日、外出しようとした彼は、いつもは点かない玄関の明かりが灯ったんだと話してくれた。。- 最後は私の体験。その日の朝、いつものように地元駅の改札をくぐった時。表示されたSuicaの残額は「1928」。そう、メイナードの生年である「1928」だ。そして駅の階段を降りホームへ着くと。。。それまでとても日差しが強く、蒸し暑かった夏の空は一変し、ホームの中程まで降り込む大雨に変わった。
その日の夕方、職場でiPhoneへの着信があった。発信者は「エリックミヤシロ」。その名前を見た瞬間、すべてを悟ったのだった。- 亡くなった方が最後に挨拶に訪れたといった話を聞くことがある。玄関のブザーが鳴って出てみたけど、そこには人の姿はなかったとか。
- 今回紹介した3つの出来事はどれも実話だ。メイナードが最後にお別れに来てくれたんだと信じている。切れていた明かりを点けたり、"1928"で驚かせたり、彼らしいお茶目な挨拶は「私は旅立つけれど悲しむんじゃないよ」、そう伝えたかったのだろう。
2019/09/13 - まず最初はエリック・ミヤシロさんに伺った話。彼はその日、横浜でステージを控えていた際に報せを耳にしたそうだ。悲しみを誰にも気付かせず演奏するエリックさん。そこで彼は、客席後方に二つの光が現れ、一緒になって消えていくのを目にしたと話してくれた。その二つの光とは、メイナードと天国から彼を迎えに来た奥様だったのだろうか。
- 裏話クリスチャンのSUKIYAKI (Christian Jacob)
- クリスチャン・ジェイコブも親しくしてもらっているMFファミリーの一人。2007年のトリオでの来日ツアーの際、彼は特別な曲を用意してきてくれた。「花」「夏の思い出」「赤とんぼ」「雪の降る町を」の4曲。そう、日本の四季をテーマにしてくれたのだ。
アメリカに住む日本人の友人に、アメリカ人が知っている日本の代表曲だと聞いたとか。どれも素敵なアレンジと演奏なのだが、私はもう一つ選んで欲しかったと彼に告げた。それが「SUKIYAKI」、坂本九の「上を向いて歩こう」。1960年代にイギリスとアメリカで大ヒットした曲で、アメリカ人なら誰でも知っている曲だよ、ということで紹介し、是非次の機会にレコーディングしてくれないかとお願いした。クリスチャンはフランス人だから、当時のアメリカのSUKIYAKIフィーバーぶりなど知るよしもないのだが。。
けれどこのリクエストに興味を示してくれた彼は、「ユタカ、それはどんな曲だい?」と聞いてきた。その夜、彼の宿泊先まで送り別れる際に、私は何とか伝えようと、口笛と下手な歌と、いい加減な歌詞の英訳を交えながら必死だった。翌日会った時には坂本九の歌唱はもちろん、ジャズからロックギターまでさまざまなバージョンの「SUKIYAKI」をCDに焼いて渡したのだった。- この話は一旦そこで終わっていたのだが、2011年に再び彼にこの曲名を伝えることになった。
2011年、東日本大震災が発生し世界中が日本の様子を心配し見守ってくれた年だった。彼の日本での版権を管理するSSJの企画でチャリティー作品が作られることになり、クリスチャンは何を収録しようか迷っていた。私はすかさず「SUKIYAKI」の名を伝えたところ、即座に決定となった。彼いわく「SUKIYAKIの曲名を聞いて、すべての迷いが吹き飛んだ」。
演奏はクリスチャンのソロピアノで行われ、鎮魂歌を思わせるような名演奏が生まれた。派手な飾りのない素敵な贈り物と言えよう。
今や映画「ハドソン川の奇跡」の音楽監督を務め、何度もグラミー賞にノミネートされるピアニストが日本のファンの声を元に曲を選び演奏した。クリスチャンのSUKIYAKIはそんな「奇跡」。ちょっといい話でした。- カリフォルニアより愛をこめて SSJオールスターズ 「SUKIYAKI」収録
Live in Japan 来日ツアーLive録音盤
2019/09/14 - この話は一旦そこで終わっていたのだが、2011年に再び彼にこの曲名を伝えることになった。
- MFメイナードの形見
- 5月4日はメイナードの誕生日。そして8月23日は成層圏の彼方へと旅立った日。どちらの日も、Facebookには世界中のMFファンによる多くの投稿が行われ、メイナードへの思いを馳せる日となっている。私も毎年メッセージを投稿するのだが、その時よく使うのがこの写真。きちんと説明したことがなかったと思うので、今回はそのお話を。
表紙でメイナードが微笑んでいるのは「Wind player」という雑誌だが、注目してほしいのはサングラスとリップスティック。
サングラスは1997年にナイアガラでコンサートを鑑賞し、道中をご一緒した時にいただいたもの。ファンの方からの差し入れとのことで、御大自らがバンドメンバーに配って回った。その時、「ユタカもメンバーだからな」と言ってプレゼントしてくれたものだ。
リップスティックは、メイナードのお嬢さん、ワイルダーからいただいたもの。クリスチャンの来日中に食事をご一緒した時に、「これはパパのリップスティックなの。大事にしていたけれど、これからはユタカが持っておくといいわ。」と言って渡してくれた。
なんだか自慢めいた話で恐縮なのだが、この写真に写っているサングラスとリップスティックには、こんなエピソードがあったのだった。え? リップスティックは口に当ててみたかって? 出来るわけないでしょう(笑)。。
2019/09/14
- 交流カールのこと (Carl Fischer)
- カール。トランペッターのカールフィッシャーは私の大好きなトランペッターの一人。日本ではまだまだ知られていないかもしれないが、彼は今、ビリー・ジョエルのバンドでツアーを回っている超一流のプレイヤーでもあるのだ。
彼に初めて出会ったのは1997年。幸運にもアメリカ出張中にメイナードのナイアガラでのコンサートを観る機会を得た時だった。この貴重な体験についてもいつかお話したいと思うが、MFツアーバスの中で彼はとても気さくに接してくれた。
このカール、MFバンドに加わった頃、ファンクラブの会報では"valet"として名前が記載されていた。roadieではなく、valet。日本語で近い言葉としては「ボーヤ」だろうか。生粋のニューヨークっ子の若いトランペット吹きは、こうして自身のキャリアをスタートさせたのだった。
その後の彼の活躍は素晴らしく、MFバンドを離れた後、ビリー・ジョエルに認められるまでになった。ビリーの曲「Zanzibar」でフィーチャーされる彼の演奏を是非聴いてほしいと思う。ビリーバンドでの活動と並行し、自身のバンドも結成。さらにはCDリリース、トランペットとマウスピースのシグネチャモデルのリリースなど、積極的に活動している。MFバンドのボーヤから始まり、今やスターダムをどんどん登っていくカール。現代のアメリカン・ドリームだと思いませんか?
ちなみに「Zanzibar」、アルバム収録時のトランペットはフレディ-・ハバードでした。
YouTubeチャンネル
2019/09/14
- 驚愕その昔のレコードコレクター
- またまた昔話です。。。今から遡ること40数年前、そう、「昭和」のガキンチョにとっては当時2,500円もするLPレコードを買うということは容易ではなかった。
小遣いをため、クリスマスと正月は絶交のLP購入のチャ~ンス。
ファーガソンの名前も分かり、"軍資金"を手にした少年(=私)が目指したのは"レコードの冨山"、正直ローカルネタはどうでもいいとして、流行る気持ちでレコード棚を物色。。あった、あった! "これがファーガソンのレコードじゃ"。。でも何か違うな。。。流行る気持ちを抑えてレコードに針を落とす。。。
「おおおおおおおーー、違う、違う! 全然違う!」
そう、少年(=私)が勢い勇んで買ったのは「ROCKY DISCO」が収録されているメイナードのアルバム「HOT」だったのだ。それから本当に欲しかったアルバム「征服者」を手にできたのは三年後だった。。。
2019/09/13
- 爆笑閑話休題 MFマニアが考えることといえば。。
- 今回は極めてライトトーク。若い頃、結婚したら娘が二人ほしいと思っていた。
なぜって? 親としては名付けが楽しみだからですよ。
で、どんな名前を考えていたかというと、「明奈」と「亜土」。「明奈(メイナ)」と「亜土(アド)」で『メイナ・アド』、そう「メイナード」。
若かったというか、アホだったというか。でも、隊長は結構本気でした。
一方、息子二人だった(=これが我が家の現実ね)の場合のことは何も考えていませんでした。
"Maynard"を大きな英英辞書でひくと、"strong boy"とかの説明があったので、「剛(つよし)」とかを付けていたかもしれませんね。やがてその子は大きくなり、暴走族に入ってしまう。。。そこで、「盟奈亜土 派我尊」とか書かれた旗を持って集会に参加していくという。。。そう、ヨミで分かるよね? 失礼しました。。。
2019/09/15 0:58
- MF2006年、MFファンの熱い夏(1)
- 2006年の夏のことを生涯忘れることはないだろう。この年の8月23日、メイナードは"成層圏の彼方"へと旅立ってしまった。翌9月には日本公演が予定されており、突然の訃報は多くのファンを悲しませた。
このツアー、ワールド・プロジェクト・ジャパンの黒坂さんが企画してくださったもので、いい意味で「手づくり感」がいっぱいの内容だった。メイナードとメンバーはバスで移動し、日本のMFゆかりのビッグバンドとの共演、菅平でのワークショップという非常に興味深いメニューが組まれ、関係者はもちろん、全国のMFファンは楽しみにしていた。
私はそのツアーでサポートマネージャーの大役を仰せつかり、移動中のサポート、そして菅平のワークショップでは何とメイナードと私の対談「隊長、ボスに聞く」というメニューのホストを担当する予定だった。
しかし、どれも叶わぬこととなってしまった。。。
日本のMFファンが一丸となり、このツアーを成功させようとしていた夏。突然の訃報に涙した夏。悲しみを乗り越え、全国各地で追悼コンサートが開かれた夏。セントルイスで開催された追悼コンサートへ駆けつけた夏・・・。それが2006年の夏。MFファンの熱い夏だった。
2019/09/13
- 本音みんな「隊長」って呼んでくれるけど
- メイナード・ファーガソンの音楽に出会い、もう40年以上が経つ。
地元のビッグバンドの演奏を聴いて彼の音楽に出会うという、まったく偶然の出会いだった、今思うとそれは"必然"だったようにも思う。自分が生涯を通じてこれほどまでに熱くなる出会いに恵まれたことに感謝している。
個人サイト、MFメーリングリスト、mixi、Facebookと情報発信の場は時代の環境の変化に合わせて移り変わった。
その時々の出会いによって、"MF"を語り合える多くの仲間に出会うことができた。
そんな中で、私は「隊長」と親しみをこめて呼ばれている。このことにとても喜びと誇りを感じる。けれども、私が「隊長」となり得たのは、まさに「Give and Take」の精神を連ねたからだと思う。いや、これを意識したことはなかった。とにかくファーガソンが好きで、ファーガソンの話ができる仲間との出会いが嬉しかった。
どうでしょう、もしも私が「えへへ、ファーガソンのレコードをたくさん持っているもんね」とお高くとまっていたら。。。そう、今の自分や周りとの交友関係は築けていなかったでしょうね。。
2019/09/13